「祝福」(映画の回想から) |
阿Q正伝―他九編
魯迅 丸山 昇 / 新日本出版社
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魯迅の「祝福」という短編を読んだのは、同名の映画を観てからだったと思う。
もう随分経ってしまったが、NHKの教育テレビでアジア映画の特集があり、その中の中国映画の1本だったと記憶している。
映画の記憶は薄れながら、それでもずっと心の中に残っているのは、「祝福」という題名とはかけ離れた、映画の主人公の人生が不幸極まりなく強烈だったことからだ。
主人公・祥林嫂(シァンリンサオ)はつれあいが死んだ為、女中として奉公に出る。彼女は惜しみなくよく働いた。年末の「祝福」という、福の神を迎えて来年一年の幸運を祈る行事の用意も、彼女ひとりでやってのけるほどだった。しかし、奉公先にも慣れたある日、川に米とぎに出掛けた彼女は船に押し込まれ連れ去られてしまう。彼女は死んだつれあいの姑によって連れ戻され、お金のために別の男の嫁に出されてしまったのだ。彼女は再婚に抵抗する。が、観念したのだろう、相手も優しい男だったので家を手伝い、子供も儲ける。だが、また思いもしないことが起こってしまう。彼女のつれあいがチフスで死んでしまい、彼女の子供もトラ(だったと記憶していたのだが、原作ではオオカミ)に食べられてしまったのだ。
一人になった彼女はまた最初の奉公先で女中として働くことになるのだが、身に起こった不幸は彼女を変えていた。以前のように機敏に仕事がこなせず、次第に周囲から忌み嫌われていく。彼女が携わることで汚れるように思われ、「祝福」の用意さえ手伝わせてもらえないのだ。
映画の最後、乞食のようにボロボロになった彼女が、雪の中を彷徨いながらこちらに向かって訴えかける。
「私が一体、何をしたというのでしょう・・・」と。
原作では、物語を語る『私』が精神も壊れてしまった祥林嫂に、「人が死んだ後、いったい魂はあるものですか?」と尋ねられ、「あるかもしれない・・」と言ってしまった言葉を取り消したくて、しどろもどろに「はっきり言えない・・」と答え直すのだが、何かありそうな予感の通り、彼女は翌日死んでしまうのだ。「祝福」の頃、乞食のように行き倒れになって。
だれもこのことに同情は無く、多くの人の中に彼女のような人間はいくらでもいそうな、そして彼女を追い詰め、見放す周囲(『私』も含めて)があるのを知らされます。
上海・魯迅公園。
私が訪ねた時は「虹口公園」(1922~1988)という名称でした。
写真後方の壁には「魯迅先生之墓」と書かれています。
【追記 2008/02/17】
「祝福」の主役・祥林嫂を演じた白楊さんが亡くなられた記事(1996年10月2日付け)
私、魯迅先生のことは国語の教科書でしか知りませんけど、この話、りよさんから聞けてよかったなと思います。これも祝福ですね。
上海に魯迅公園ってあるんだね。虹口公園。
虹の入り口、私もいつか行ってみたいです。
きょうもよい一日を。ではまたね!
こんにちは~、chiikoさん!
ここにコメントをありがとう。
上海に行ったら魯迅のお墓には行ってみようと思っていたので、地図を片手にバスを乗り継ぎ辿り着きました。
なんと魯迅の展示物もあるらしいのですが、私は知りませんでした(あぁ、ショック)。当時は無かったのだと思いたいですよ(汗)。
その時の日記に、「墓は、墓でしかない」と書いているので、こうして写真を見て本の事や当時の事を思い出すほうが感慨があるようです。
「祝福」はことばに残しておきたかったのですが、改めて本を読んでみると、映画と本のニュアンスは違っていたと感じます。
原作の登場人物は、淡々と存在し消えていきます。魯迅の正直な描き方なのでしょうか。
chiikoさん、魯迅公園は分かり易い名称ですが、虹口公園の方がいいと思いませんか??(笑)
地名からきているようですが、私の中ではいつまでも「虹口公園」です。
よい一日をありがとう。chiikoさんもね。
ではでは~。