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2011年 03月 03日
自分の人生において、「やっておいて良かったこと」の筆頭に挙げられるのが、50日程のこの中国旅行だったと思う。
なにより(偶然にも)、中国国内の社会情勢が良かった時期だった。外に向かい、改革開放路線に沿った、外国人熱烈歓迎だったように思う。当時、限られた都市に行くためには、中国の外事科で旅行証を発行して貰わなくてはならないハズだったが、申請に行くと急に撤廃されていたようで驚いた覚えがある。思えば、本当に外国人が旅行しやすい時期だったのだろう。 3月3日、伊丹空港からソウル→台北→香港へと、なんと6時間以上かけて到着。大韓航空だった。。。^^; ![]() 香港から深セン(圳)へ。3月4日。 25年前の深セン(圳)。 まだビルも少なく、この後経済特区として発展していくとは思わなかった。。。 「旅行者は、それ以外何ものでもない。なら、そうであることを楽しもう」 25年前の私は、そう日記に書いている。 2009年 03月 22日
![]() 小雨に煙る漓江の景色は、まるで墨絵の世界のようだった。 けれど、私がしていたのは、船の中で知り合った武漢(ウーハン)のご夫婦と大理(ターリー)の少数民族のご夫婦(お子さん連れ)との5人でのトランプ。なぜトランプをすることになったのか覚えていないけれど、みんなで笑っていた時を思い出す。 特に終始丁寧に筆談で尋ねてくれた武漢のご夫婦は、ご主人が先生で奥様はどこかお勤めの方らしかった。私はこの漓江くだりで武漢のご夫婦に大変お世話になったのだ。この頃はまだ旅の初めで、お名前も住所も聞き忘れ、一緒に撮った写真も送れずじまいになってしまった。 船は進み、甲板で眺める漓江風景の説明アナウンス(中国語)が解らない私に、2組のご夫婦はゼスチャーを交えて「この風景は○○の形に似ている」とか説明してくれるのだが、果たして私の理解は合っていたのだろうか!(笑) ![]() 途中の船着き場で船が一時停船したときの話。 「ここで船を降りて、あの岩山に上ってきなさい。写真を撮ってあげる」 (とたぶん言っておられたと思う) 「え~、でも~、もし船を降りてる間に出発しちゃったら・・・」 (と言う私の日本語は通じていないと思う) 「ほらほら!」 (らしき中国語で促される) ![]() 急いで船を降りて岩山に上る私。。。 船の方を見下ろして焦る、焦る(心配)。 で、なんとか無事に戻ってこられたよ~~;; 漓江下りを終えてバスで桂林に戻る時、ひまわりの種を私のポケットに入れてくれるやら、サトウキビや果物をくれるやら、武漢のご夫婦は私に気を遣ってくれたのだった。 帰りのバスは筆談も出来ないほどの揺れようで、疲れた私は座席の背にしがみつきながらウトウトしていた。 外の景色は、夕陽が桂林特有の突起した岩山の間をこぼれ降るように差し込んで、バスの移動と共に移っていく。幻想的だった。。。 これは夢??いや違う。カメラも取り出せないほどの揺れに撮影はあきらめたけれど、なんとしても憶えておきたい風景だった。 2008年 05月 31日
時々お邪魔させていただいているブログ、「たっきーの餃子部屋in香港」さんの記事『和平飯店は今』によると、上海の和平飯店が1年以上前から改装中といいながら(今のところ)閉店になっているようです。
和平飯店には泊まったことがありませんが、このホテルのジャズ演奏は結構有名で、私も行ったことがあります。 ![]() 上海でお宅に招待してくださったTさんやOさん夫妻が(確か)連れて行ってくれたのですが、若向きというよりは年配向きな感じの、どこか懐かしいオジサンたちのジャズ楽団(!)でした。 ![]() 和平飯店に泊まろうとは、バックパッカーの身では畏れ多くてチャレンジできませんでしたが、今となっては泊まってみたかったですねぇ。。。 ちなみに、上海で泊まっていたのはココ、浦江飯店のドミトリー。 一部屋に10ほどのベッドがあって、自分のスペースはベッドの上のみ。1泊9元(当時の料金で450円ぐらいですか)でした。 ![]() 3階から外白渡橋を臨む。 浦江飯店のレストランで、フランス人のおじさんと相席になったのですが、私が「お薦めは??」とウエイターに頼んだものがそのおじさんの方へ。私にはとっても地味なお料理が。。。変だなぁと思いつつ、2人とも食していたのですが、気づいたウエイターが「アイヤ~~(^^;)」と言って謝ってました。どう見ても高そうなお料理はフランス人のおじさんにいっちゃいますよねぇ。。。 2007年 06月 06日
![]() 距離 4,079km 料金 特快硬臥(特急2等寝台)当時100.4元(約5,500円) 旅行の中で切符を買うことは難しい。 窓口までの行列に混じって1時間以上、やっと窓口に辿り着いても「明天(ミンティエン・明日)」。3日間、同じことをしたこともあった。 この時も1日目は取れず、翌日は窓口まで来てから別の窓口(軍人・教師用だった)へ行けと言われ、そこへ行って恐る恐る「対不起(トゥイプチィ・すみません)」と言いながら行き先・火車番号を書いた紙を見せて、切符を手に入れたのだった。 乗り込んで、周りの人とはまた筆談だった。 なにも話すことのないときは、ぼんやりと窓の外を眺める。 火車の線路に沿って渓谷の下、黄土色の川が流れ、土壁の家の白い花咲く木が見える。 向かいの寝台の中国人のKさんが、「杏花」だと教えてくれた。 南京で、烏魯木斉から乗っていた多くの学生が降りていった。 帰国して知ったのだが、南京にはちょうどその頃「南京大虐殺記念館」が出来ていたのだ。 私によく話しかけてくれた学生のYさんも、どこへ行くのかを私に言わなかったが、たぶんそこを見に行かれたのではないかと思う。 私はその時、(南京に記念館があったのを知らなかったのだが)南京を火車で通り過ぎるだけでも緊張していた。「過去は過去」とは、その時もやはり今でも、とても思えないのだ。 そして、上海に着くころ、この4日間私とは一言も話さなかったおじさんが、持っていた段ボール箱から小さなリンゴを二つ取り出して、私にくれた。よい旅を謝謝。 【追記】 当時の日記を読むと、「火車に乗る時は“うまくつき合えるだろうか”という不安もあったけど、結構みんなに優しくしてもらって楽しかったし、乗ってみると4日間は早かった」と書いている。 しかも「周りの人から、ひまわりの種やらもらって、悪いなぁ」とあるので、ひもじそうだったらしい(笑)。食事は何を食べていたのか、食堂車ででも食べていたのか覚えていない。 火車の服務員(車掌さんみたいな人)が切符を預かった後、暫くしてから服務員室に来るように言ってきたので、もうてっきり料金の上乗せを請求されるのだと覚悟していたのだが、筆談で「どこから来たとか、歳は?とか、吃飯(食事をすること)で困難はないか?」と聞いてくれるだけだった。 実は、私の料金は中国人用で、本来外国人は1.75倍払わねばならないのだ。しかしそれは徹底されてもいなかった(と、思う)。 2007年 02月 28日
![]() 「龍門」に行こうと思うのだが、バスターミナルに何台もバスが停まっているのに、行き先が書いてない。。。 しかもどのバスが動き出すのかも分からない。。。 外国人の私が分からないなら仕方ないのだが、同じように中国人の方々もウロウロと迷っている。ああ、私だけじゃなかったヨ。 数人乗っているバスに乗り込んで待っていると、隣のバスのエンジン音が!!で、みんなぞろぞろ移っていく。私も遅れじと乗り込む。。。こんなこと、2,3度しましたって(笑)。 観光より、こんな状況が妙に後になっても憶えているものですわ。 ![]() 昆明の「龍門(ロンメン)」から見る大きな湖(別名・昆明湖。ホントは「さんずい」に「真」って書く、湖の名前なんですが。)の眺めは格別でした。いや、なにせ、登っていくのが大変でして^^;。 花亭寺 ![]() 帰りは花亭寺までバスが行くのだけれど、それ以降が分からない。帰れない?? 適当に停車しているバスの中に居る人に地図を見せて「昆明飯店(に行きたい)」と指さすと、何やら2~3人で相談?した後、乗るように言われた。 で、乗って気がついたのだけど、このバスは貸し切りのマイクロバスだった(補助席付いてた)!運行バスじゃないよ!!! しかも着いた所は、別の観光地「大観楼」。。。。 バスの中で筆談していると「一緒に」ということになったのですた。いいのか!! とうとう私も団体(ある省の国営社)の一員のように見て回り、写真も撮ってもらっての楽しいひとときを過ごし、ホテルまで送ってもらったのでした^^;。 後に写真と手紙を、この時いつも一緒にいてくれたCさんというお姐さんが送ってくれたのですが、驚いたのは、次の日も私のホテルまでバスで誘いに来てくれていたことでした。私は出掛けた後だったようです。この方たちの会社は、日本とも関わりがあったらしく、日本語の通訳の方が会社にはおられたとかで、手紙も日本語訳付でした。 ![]() たぶん、日本人の私が親切にしてもらえたのも、Cさんたちが少なからず日本との繋がりを大事にしてくれていたからだと思います。 Cさんは私より8歳年上の(お子さんのおられる)お姐さんで、「友好姐妹」と書いていてくれていました。 【追記】 雲南省 昆明(クンミン)は「春城」と呼ばれ、年間を通して気候は温暖だといいます。 省としてはベトナム・ラオス・ミャンマーと国境を接する中国最南の省であり、10以上の少数民族が暮らしています。 私が滞在したのは3月中旬の6日間(石林(シーリン)観光も含む)でしたが、暖かく過ごしやすかったです。また、石林で見た夜空はすばらしかった。私は行きませんでしたが、大理(ターリー)、西双版納(シーサンバンナ)へ行く旅行者もありました。 昆明~成都間の成昆鉄道(と、今も言うのか?)は、火車旅行としては険しい山岳部を走り景色も最高と聞いていたので是非乗ってみたいと思っていましたが、切符が取れず断念。飛行機(飛机)で成都へ移動しました。 2006年 10月 11日
![]() この「鳴沙山」には2回行ったのですが、1回目はなぜだったか香港人グループ(男性3名、女性1名)の自行車(自転車)部隊(?)に混ぜてもらって、「連れて行ってもらった状態」で辿り着きました。 日記には「白馬塔(記憶あり)や敦煌古城跡(記憶なし)も行った」となっているので、香港人の皆さんには随分お世話になりました。自転車も足が届かない、しかも前に棒のある乗りにくいものだったので、最初は支えてもらって乗っておりました(迷惑この上ない・・・・)。 ![]() この山(砂?)の中には「月牙泉」という泉があります。上から見ると、なるほど三日月の形とも、牙とも見えるんですよ。 ![]() もちろん、ラクダにも乗ってみました!(写真は私ではありませんが・・・) 貸し自行車代・ラクダ代・昼食代合わせて、3.8元(200円ぐらい)の『割り勘』でした。 NHKの「シルクロード」という番組(ちょっと古いですが・汗)がありましたが、きっとココに来たらその主題曲を思い出すだろうなぁと漠然と思っていたのですが、正直言って、まるで思い出せませんでした。 喜多郎の曲は日本人が行ったこともないシルクロードに対して、郷愁のような想いを呼び起こしてくれる曲なのかも・・・と私は思うのですが、内陸のシルクロードでは乾いた気候とイスラムの音楽(火車の中では大きなラジカセから流れていた、曲とも言葉とも区別できないような)が印象的でした。 ![]() 鳴沙山の東の断崖に掘られた石窟が「莫高窟」です。 【追記】 莫高窟にはカメラを持って入れず、預かり所に預けることに。 失敗だったのは、どの窟を見たのか番号を控えていなかったこと。絵(写真)はがきが売ってあるので、後でそれに記してある番号で確認できたのに。。。 中国人の団体さんに便乗していた(まぎれていただけです)ので、ガイドさんの説明はもちろん分からず(涙)。 【追記】そして事件が起こったのだ! 2006年 05月 28日
街角から路地へ
![]() もう、どこの駅だったか分からない。 知り合った誰かを駅まで数人で送っていった。 そこに日本人らしき人が通りかかった。 話し出した切っ掛けも覚えていない。 「これからどこに行くの?」 「北京。どこ行くの?」 「今日は見送り。じゃあ私は反対だな~。ウルムチの方。」 あ、ここはもしかして西安だったか。。。 「じゃぁ、また!」「うん、また!」 もう出会うはずがないのに、「じゃぁ、また!」って言うよね。 誰なのかなんてどうでもいい。 交差した道の一点に立って、同じ時そこに居た偶然は「じゃぁ、また!」を言うために出会ったのかもしれない。 2006年 03月 26日
![]() 旅の話がいろいろ飛んでしまうのだけど、吐魯番(トルファン)の後、烏魯木斉(ウルムチ)に行き、3泊4日の火車旅行で上海に辿り着きました。 香港から飛行機で戻るチケットの期限はもうとうに過ぎてしまい、一番安く帰るには上海~大阪(神戸?)への船を使うのがいいことを聞いていたので、北京に行くのは諦め、上海に行ったのでした。当時390元(日本円で2万ぐらい)だったけど、ネットでみたら今も2万ぐらいなのね~。 で、その船のチケットを求めて上海の街を歩いていると、「おねえさん!」と聞き覚えのある声が・・・。振り向くと、あの吐魯番で一緒にベゼクリクなどの観光をして、道に置いていってほしいと言ったR(勤めていた某有名企業名で名前を呼んでいた)くんでした。 話していると、3日後、Rくんが知り合った中国人の方のご家庭に招待されてるから、一緒に行かないかと誘ってくれて「一人も二人も同じです・・」とかなんとか言われて、「じゃぁ・・」とお願いしてもらうことになったのでした。 そのご家庭は、Tさん夫婦と赤ちゃん・Tさんのお母さんのご家族で、別に住んでいるTさんの先妻の子供さん夫婦とその子供、Tさんの友人のOさん夫婦、そして日本人が来るというので某大学の日本語科の先生が迎えてくれたのでした。実は、TさんもOさんも、昔日本に住んで居られたので日本語がペラペラでした(奥様達は話せないのですが)。Tさんのお母さんはその時80歳は越えておられたのだけど日本語を話されていたし、お父さんのお墓が神戸にあることも言っておられました。 その日はTさんの奥様にお料理を出していただいて、楽しい時間を過ごしたのでした。 日本に帰ってから、その時約束したスタイルブック(奥様が洋裁をされるので)を数度送ったり、Tさんの親戚の方が国の派遣で日本に来られた時、お土産をいただいたりしたのですが、だんだん日中間の様子も変わり、手紙を出すことも迷惑が掛からないだろうかと思いだした頃、Tさんの子供さんからの手紙でTさんが亡くなられたことを知らされたのでした。 Tさんは日本語学校の先生をされていたのだけど、下さった手紙の日本語はしゃべられるほどの流ちょうな日本語とは違って、もう文章としては日本語を忘れられ始めているものでした。(子供さんからの手紙は中国語で、日中友好協会に(これは無理に頼んだもので有料です)訳していただいたのでした。) 一緒に食事をした後、みんなで記念撮影をした写真を眺めていると、なつかしい想いがこみ上げてきます。。。帰る時の、Tさんのお孫さんの「アイー、ツェイウェイ!(おばちゃん、再会・上海語での再見)、アイー」という声を今でも思い出します。 ある話 2006年 01月 14日
![]() 吐魯蕃賓館(ホテル)で出会った日本人3人で車を借り切って、ベゼクリク千仏洞やアスターナ古墳群、高昌故城に行った帰り、火焔山(かえんざん)の横で撮った写真です(随分昔ですが)。ここでこの背景をバックにひとりずつ記念写真を撮りました。 写真の先はこれから戻る、トルファンの街の方角(西)です。 実は一緒に行ったひとりが、このあたりで自分だけ車から降ろしてほしいと言っていたのです。 ホテルで車を借りる時も服務員に諦めるように説得されて(もちろん、日本語で)いたのですが、よほどやってみたかったのでしょう。そんなことをしてみたい気持ちも分からなくは無いのです。でも、こんなところで降りたら車も通らないかもしれないし、気温が落ちるととんでもないので、連れて帰ったのでした。後に私は、この人と上海でバッタリ出会ったお陰で、中国人のご家庭に招待してもらうという幸運にも巡り会うのですが・・。 高昌故城は、西遊記のモデルにもなった玄奘三蔵が仏教の経典を求めてインドに行く途中、ここに立ち寄り、国王に1ヶ月間仁王経を講義したといわれているところです。 ![]() 2005年 08月 28日
誰かと一緒にお食事をするとき、割り勘 ってすることありますよね。 中国旅行中 食堂に入ると、一皿が結構な量なので、なるだけ日本人を探して一緒に食べるようにしていました。いろんな種類が食べられるし。こういう時って、私はあまり恥ずかしくないんです。普段、気になるヒトとは、恥ずかしくて居られなかったんですけどね・・。 もう旅もお終いの頃、上海で(その時よく行動を共にしていた)F沢さんとレストランで食事をしていました。近くのテーブルに家族連れがいて、チラチラ私たちのことを見ています。さぁ、食事が済んで「割り勘」の計算を始めお金を出してたんですが、その家族連れの夫婦が(え?っと思うほど)こちらを見ながら大笑いをするんです。 ????意味分からず。二人で「なんか、変なことしてた??」「別に~、いつも通りよ」??? それまで、いろんなとこで、割り勘 してたけど、笑われたこと無かったし・・・その時は謎でした。 帰国してから、ある留学生の方のエッセイを読むことがありました。なんと 「中国人に割り勘の考え方は無い」 とのことでした~。食事をしたとき、ダレが払うか戦々恐々だとも書いてありました。 う~ん、これってほんとなの~~? 何年も前だから、今はどうなのかなぁ~。 でもあの上海の家族連れ、確かにお金を出した時、笑ってたなぁ。なんか指差されてた気もする・・。それとも、大食いだとかだったんだろうか・・・。 ついでに、旅行中聞いた話(情報交換は大切だったんです)。 4人で食事を頼んで、「湯・タン」(スープ)をみんな一つずつ頼んだら、3~4人前分が4つ来た・・。当時地方は特に、店員さんも外人に話しかけれないみたいでそうなったらしいです(外国語が一般の食堂で話せる人ってないよ~)。だから気をつけろ・・という笑い話でした~。 酒泉の街角 ![]() < 前のページ次のページ >
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